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Channel: 【駿河台大学】現代文化学部からのお知らせ
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グローバルか・・・ その(3)

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現代文化学部 廣野行雄教授

 秦の始皇帝の死後、二世皇帝を自分の意のままに操ろうとした宦官(かんがん)趙高は、鹿を見せて「馬でございます」といった。二世皇帝が「そなたの間違いだ。これは鹿だよ」と否定すると、まわりの臣下に「これは馬か鹿か」と尋ねた。多くの者は皇帝の寵臣(ちょうしん)趙高の威を恐れて黙っている。なかには馬でございますと阿(おもね)るやからさえいたが、さすがに鹿だと答える気骨のある者もいた。だが、そういう者は無実の罪を着せられて処罰された。語源説としては信じるに足りないが、愚かな様をいうのに、この二種類の動物の名をならべるのもむべなるかなである。

 地球全体がひとつになるのだから、それぞれの国が得意分野の産業によって棲み分ける国際分業制が確立して、人々が国境を越えて行き来するようになり、それぞれの文化を尊重しあう、といったバラ色の夢を「グローバル化」のうえに思い描くとすれば、それこそ鹿を馬と言いなすようなものではあるまいか。

 英語に限らず外国語に堪能な人を見ると感心せずにはいられない。本人がそれを苦労と思ったかどうかは別として、そうなるまでに払われた努力に対して頭が下がる。
 自分だって語学教員のはしくれだ。できるだけ多くの学生諸君が語学に興味をもって積極的に取り組んでくれたら、その言語が話されている場所へ行って、そこの人々と交流し、直接異文化にふれる機会をもってくれたら、どんなにうれしいだろう。
 外国人の、あるいは外国籍ではないが日本語を母語としない友人たち、あの人たちは、自分にとって一般の日本人に対する以上の親しさと共感を抱かせる存在ではないか。

 現代文化学部、とりわけ比較文化コースは、言葉の勉強をとおして文化の多様性のおもしろさに気づき、その目で自文化を見つめなおす場所ではなかったか。だから、どの文化がどの文化よりすぐれているとか、どの文化が、他が見習うべき模範的な文化(グローバル・スタンダード)だという考えをとらないのではないか。ことばは、人間が操る道具であるという聞いたところはもっともらしいが実は顛倒(てんとう)した、粗忽(そこつ)な考えをとらないのではないか。ソシュールだのハイデガーだのをもちだすまでもなく、ことばこそが人間というものを、世界(存在)を立ち上げる存在にしているのだから。

 むかし読んだレマルクの小説『西部戦線異状なし』。映画も見た。祖国のために勇ましく戦えと教師にあおられて軍隊に志願した少年は、やがて戦争の現実を身をもって知ることになる。そして彼は、自分のようにして兵士になったものにとっての下士官や教師を、そうだ教師をだ、銃をとって対峙している敵以上に凶悪な敵だと考えるようになるのだった。
 それは百年も前の、またしても百年だ、第一次世界大戦(1914~1918)当時のドイツのことで、しかも小説の中のエピソードではないか。

 しかし、もし自分が、「グローバル化」について、軽信を戒め、目を凝らして見、耳を澄ませて聞き、それにどう対処するのかを考えさせるのではなく、明るく、積極的なイメージで飾り立て、外国語をその「グローバル化」に役立つ道具だとして教えたとすれば・・・

 いつしか車外の視界がしだいに回復し、かつて見た、懐かしい青島の旧市街の町並みが窓の外を流れていく。

 それとともにわたくしも五里霧中を迷走する、暗いもの思いから我に返った。

 ・・・さあ、これから会いに行くのだ。海を渡ってやって来て、あんなにも熱心に日本語を学び、それをまた母国の人々に教えている、一人の中国の女性が産んだ新しい生命(いのち)に。

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坂の町青島


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